「九鬼周造邸」

今朝、NHK「世界美術館紀行」をみていて想い出した。
私の友人Nは今4月に、来日数回の絵画修復を生業としているフランスの友人を京都に案内すると言う。
そのNと以前に銀閣寺で待ち合わせたことがある。


随分以前に私の高齢者親戚との会話の中に岡倉天心の薫陶を受けた『粋の構造』著者「九鬼周造」に話が及ぶと「九鬼教授」を学生時代に学内で何度も見かけたことがあったと聞いたことがあった。
又、ある方の情報で、京都山科に「九鬼周造」の亡くなる前年に自ら設計した千坪の邸があり何れ取り壊されると聞いていた。
家具調度から樹木の1本1本に九鬼の美学が表れているという九鬼邸。
私は手水鉢下の石や日時計の石など石の配し方はどうだろうかと是非見たいと強く思ったのであったが、(母の介護もあり)と母のせいにして意志あれば都合をつけ行けた筈なのに母のせいにしている自分があった。
現在はスキマ時間や都合をつける知恵ができてきたのか、短時間の徘徊を楽しむことをしているが。

銀閣寺「哲学の小径」を桜吹雪の中をNと歩いたことを想い出しながら山科「九鬼周造邸」に行かなかったことを今も悔やんでいる。

人は夫々の美学を求め美学を生きたいと願っているが私の美学波動は微弱で短いようだ。

ヴァレリィは「散文は歩行であり、詩は舞踏だ」というが私は「散文は動・植物、詩は鉱物だ!」ナアンテね思うヨ〜!!