『パウル・ツェラーン』
随分以前、ある教員から受けた理不尽なことへの反論として、未熟な私の拙い言語力では太刀打ちできないと、「飯島耕一、ヴァレリー、エミリー・ディキンスン」等の詩文、詩句を引用して提出したことがある。
『母国語』 (飯島耕一)の作品の後半
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
四月にパウル・ツェランが
セーヌ川に投身自殺をしたが
ユダヤ人だったこの詩人のその行為が
わたしにはわかる気がする
詩とは悲しいものだ
詩とは母国語を
正すものだと言われるが
わたしにとってそうではない
わたしは母国語で日々傷を負う
わたしは毎夜もう一つの母国語へと
出発しなければならない
それがわたしに詩をかかせ
わたしをなおも存在させる
パウル・ツェラーンの詩の多くに『石』が存在する。
時間とは変化である。
今の私はツエラーンの思考をどう辿れるだろうか。