*「想い出の岩石海岸」
■●・・・私が1997年に≪ 絵本『海をかえして』丘修三/作・長野ヒデ子/画 ≫の読後感想を 拙くも綴ったものを10年ぶりに読み返し、子どもの頃を憶い出していた・・・。
庭では ⇒ くも毛を被った「シダ」&「ヤブレガサ」も 間もなく葉を広げるだろう!!
■・●・■ 「祈り」 gakakado (1997年)
『 むつごろうと、あさりと、かにが、大らかに描かれている表紙を繰ると、作者の丘修三・長野ヒデ子・あさり・しおまねき・むつごろう・の名があり、3匹のかにの、しおまねきがフラフラになり、はさみを振り上げている。
人間といえども、宇宙の一存在に過ぎず、一切の万物と等置されるべきものであるという、インド思想が浮かぶ。
言葉を伝え得る人間の、丘修三・長野ヒデ子が、あさり・しおまねき・むつごろうに成り代わり申し上げます。
そんな プロローグに緊張が走る。
「いさはやの海は うっとりするほど やさしい海です」
鳥達が飛び交い、小動物が、生命を育んでいる のどかな、のどかな干潟の光景。
人間が沖で何かを作っているぞと カニオ・ムツゴロウ・・あさりが一緒に見に行くと、その時、
「ドドドドドッ!ものすごい音とじひびきとともに はしらが 水しぶきをあげておちてきました」
29cm×26cmの画面に大なたが振り下ろされたように、鋼鉄が海に突き刺さっている。
それは、諫早湾干拓の為の293枚の扉の潮受け堤防が閉められた瞬間だった。
寄せてくるはずの海水が来ず、しおまねき達は必死にはさみを振る。
しぎじいさんは
「ここは、ずうっと むかしから みんなが なかよく くらしてきたところじゃ にんげんは そんな いじわるはしないさ」と。
瀕死の小動物たちを見て、思わず一緒に、
「こーい、こーい、はやくこーい、こないと はさみでちょんぎるぞ」と しおまねき儀式をしてしまう こどももいるだろう。
ムツゴロウの
「にんげんにとっても たいせつな ひがただもの。きっと しおはみちてくる きっと きっと」
エピローグからは祈りが響く。
■●・・・古来より、日本人は海の詩歌を多く詠んでいる。
丘修三さんは有明海、長野ヒデ子さんは瀬戸内海、私は日本海が想い出の海である。
ナホトカ号重油流出事故域に点在する私の親戚の泉水は、人工ではなく、古生代の海底の形状をそのまま活かしてあり、海底地層学によると、一万年前は裏山の高さより、69m〜84mの高さまで海水があったといいい、魚が群れていたのだ。
夏になると、磯辺にわら草履を履き、巨岩を飛び渡り、貝の採取に熱中した記憶と、鍋一杯に茹でた至福の味が蘇える。
以前より、解禁日を取り決めたり、乱獲による循環システムのバランスが崩れないように、自然への配慮はなされてはきた。
かつては、アイヌ民族にとっても、<自然>に相当する語彙の必要性がなかったように、「大地=自然」であった。
かつては、人々は「海をかえして」という発想はなく、天然の恵与に浴していた。
しかし、現代、子供たちの棲息場所が、小動物の棲息場所と隔絶されつつあり、兵器の発達と同様、大量捕獲の根絶やし法になり、生態系に悪影響がでてきた。
万物の母といわれている大地の汚染、海洋汚染、大気汚染・・・・。
あとがきの「地球はみんなの星」からも、諫早湾保全への深き、熱き念いと祈りが伝わってくる。
500万年前より、人間が創造すること=破壊の歴史であり、提言・論争は文学の役割の一つである。
海は地球の表面積の70%を占め、近未来、鉱物資源の開発は陸から海へ移行していくだろうといわれている。
自然環境保全を、次代を担う子供たちと共に考えていくことの責務がある!どこかで歯止めを!との念いに共鳴し深めた人も多いに違いない。』
●■・・・大伯父が台湾で研究、教壇に立っていた頃の「戦前の地質学舎も大規模に工事が入っていて、近い将来、新しい建物が造られ移転する」との、お便りを先日、台湾から頂いた。