*「今日も石を想う」
■●・・・今月はいつものコース、銀銅山採掘跡地周辺を三度徘徊。
野の花(せんぶり・げんのしょうこ・つりがねにんじん・あきのきりんそう・のこんぎく・・・)と岩石群の精緻かつ逞しい美に浴す。
「多田銀山」周辺の秋↑
●■・・・母は高齢による筋力低下や薬物依存症の副作用がある投薬治療を長年受け、体調が思わしくない日が多くなってきた。
母に少し遅れて、私も心身の情報処理が上手くいかない事がある。
母のライフサイクル⇒人生半ばに病気療養により心身のダメージを受けたが、認知症発症後、顔貌は柔和になってきた。
今ではCDのプロの歌では反応が鈍く、私の♪外れた歌には手拍子破顔。
軍歌♪〜ここは御国を何百里・・・友は野末の石の下〜♪では必ず涙を流す。
■●・・・信愛する方々と野の花
(1)母と同年代のMさんは病歴多くも、人生をとても丁寧に慈しんでこられた方。
先年、庭のほおずき等を持ってお見舞いに伺った事がある。
後に短冊『何よりの見舞い鬼灯童に返り』を恵贈頂いた。
(2)Sさんから、ご自身が描かれた「ほおずき」の水彩画が届いた時も快哉を叫んだ!!
(3)Kさんの作陶展初日に 庭のどくだみ等の野草を新聞紙に包み伺った事がある。
会場は既に美術部画廊の方による高価な花々が作品に。
私は礼を失すると思い持ち帰ろうとしたがKさんは私を慮って受け取って下さり、舞台裏の容器へ。
一時すると、展示作品に「どくだみを活けたい」とのお客様が来られ、私の持参した白十字花がお役に立ったか。
日頃愚鈍であるが、時に自己知覚鋭くバランスを崩しそうになると、憧憬する心性の方々、受容して下さった方々を想う。
●■・・・宗教の代用物といわれる文学。
時代は文学的状況も大きく変化し、私にとり、植物も岩石も宗教だ。
「人生はグロテスクである。美意識は不斉合である」インドの思想に惹きつけられて来、字義通りだと頷きつつも、地球の子供たちの未来は!?と祈らずにはいられない。
絵本『かんがえるカエルくん』の続編『まだかんがえるカエルくん』のページを繰ってみる。
■●・・・季節は、机に向かう時、私の助っ人、みのむし君(袋状タイプ足温器)の出番。
ただただ、漠とだが、石を想うことは愉快・爽快だゾ。